先月31日でしたが、久慈市文化財保護調査委員会が市社会文化会館で開催され、会議終了後盛岡藩・八戸藩時代の「平沢一里塚」を現地確認してきました。
高さ3.63m幅12.5m位、暴君トカゲ恐竜ティラノサウルス・レックス並みの大きさです。説明板が無ければ人によっては「異様!」ですね(笑)
㈱宇部煎餅店本社・工場前の分岐点から約1.8㎞、十文字ブロイラー玉の脇工場への分かれ道から約300m南側となります。砂利道の坂などあり、積雪時は上り下りに難儀することでしょう。
藩政時代、八戸藩の久慈・長内方面から宇部・野田・普代方面えは、この道が使われたようです。寛政二年1790、高山彦九郎は久慈八日町から野田玉川への往路、この道を通っています。
海側は小袖漁港へ流れ込む沢が、八戸・盛岡藩の境でしたが、陸側の平沢一里塚辺りはまだ久慈長内=八戸藩内だったと思われます。
現在久慈市宇部町と野田村新山地区の境に一里塚が残っており、野田村玉川~下安家間の途中、銭神地区も塚が残されていました。野田・下戸鎖境の白石峠や葛巻・平庭境の合戦場なども一里塚です。
太平洋戦争終戦後しばらくは国内各地に多くの一里塚が残されていたのでしょうが、戦後の高度経済成長期など宅地・山林開発が進み、多くの場合文化財指定などされることもなく消えていったように思われます。藩境や代官所管轄境なども同様ですね!
平沢一里塚解説板 230531@shima
現地案内解説は、久慈市教育委員会の千葉文化財専門官
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久慈市・野田村境の新山一里塚よりも相当な大きさですね。
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安政二年(1855)建立、丸石の夘子酉大明神参詣碑(道標)~もっと南寄りにあったものが今は一里塚近くに移設されている。
◎右ハのた 安政二年 夘子酉大明神 卯六月日 左ハくき 八日町舛田屋良吉 230531@shima
「オダマキ」~塚の近くで。 230531@shima
ミヤマオダマキとかいろいろあるようですが、素人には?です。
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平沢一里塚現地確認資料~久慈市教育委員会
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