ジオサイト・ポイント確認初日の15日は、昼前事務所集合で行程確認後みんなで質素にラーメンをすすり、午後からR45久慈バイパス工事中に発見された琥珀玉作り工房趾「中長内遺跡」看板前へ向かった。
この丘陵一体に数多くの遺跡があり、奈良平安期同時代には一体の遺跡だった可能性がある。
丘陵海岸側には琥珀包含の久慈層群玉川層・国丹層露頭があり、古代には湊を通した物資の流通経路で琥珀多産の小久慈町赤川、タッコの沢近くに位置している。
眼下の海に面して開けた久慈川・長内川の合流する一帯の大部分は、常に氾濫する河川の湿地帯で、この丘陵が人の往来する交通の要衝であることなど確認する。
中長内遺跡内の一棟の竪穴住居跡からは、実に1,000点以上の琥珀片や未完成品が出土していることから、丘陵集落の琥珀加工をになう役割を持っていたようだ。
海路を北上進出した時々の政権側も、まず第一にこの丘陵に陣取ったものではないか。
この丘陵周辺住民の姓に、「稲村」「勝田」「上野」「上神田」さんなどがあり、神社との関係なのか或いは早くに北三陸へと進出した関東勢との所以なのか稲作にまつわる苗字も多いような気がする。
北限の海女で有名な「小袖集落」の海女さん達が、久慈の街市で海産物を売るために往来した道も丘陵上にあり、戦後大部経ってから海沿いの断崖を縫うように今の県道が開削されるまで、この丘陵が浜と街を結ぶ交通の要となっていた。
江戸期の祭礼日には八戸藩主の使いが、暫しあった久慈港南の諏訪神社に向かう。
古来から信仰を集める諏訪神社は、数々の津波を避けて久慈湾を睥睨するような南高台に位置している。
義経北行伝説で久慈川左岸浜街道を北へ向かう義経追補の畠山重忠が放った矢の落ちたところが「源道」という伝承があり、松の木に突き刺さった矢は諏訪神社に祭られているという。
神社に伝わる「志度の海女絵図」は江戸高来氏の寄進と伝わる。
平家物語で語られる藤原房前の宝物を志度の海女(房前の現地妻)が海中より身を挺して守ったという、その場面の木製額が伝えられている。
神社の石灯篭には幕末久慈町有力者の名も刻まれている。
次に、今でも集落内の畑から土器片が多数発見される二子遺跡を確認、ここからは霞がかからなければ北の久慈平岳や種市岳(階上岳)の山体を確認できる。
久慈市漁協大尻支所を過ぎ、浄土ヶ浜トンネル手前には二か所の津波一時回避場所が明示されている。
この他にも、緩い勾配の坂があるが岩手県の指示看板は、小沢を登る所と石積みの急勾配と二か所ある。
子供やお年寄りには小沢の足元の不安定さ、雑草で確認しずらく、きつ過ぎる勾配など課題があるようだ。漁協大尻所付近にもあるようだが場所が分かりにくい。
久慈港南から小袖漁港まで距離にして約6,3kmほどなのだが、大尻を過ぎての二か所以南は浄土ヶ浜トンネルを過ぎた「五条の滝」側の避難設備だけで、小袖漁港までかなりの距離と断崖の連続で、避難方法に一考を要する❗
万が一の津波来襲など、緊急事態も想定しておきたいところだ。どこをどう辿り避難するのか!
釣鐘洞の地下深部で形成された花崗岩、急激に冷却され六角形(時に五角形)の断面となる柱状節理の夫婦岩など観察し、最後に白亜紀後期久慈層群に続く半崎の古第3紀野田層群を確認、かつて耐火粘土を大量に産出し国内有数の規模を誇った採掘場跡を確認して初日のジオサイト・ポイント現地確認・学び合いを終えました。
さあ明日は久慈渓流方面だ!
右手高台に鎮座する「諏訪神社」、久慈湾に面した古くからの神社は皆津波の及ばない高台に坐す!
久慈港北に久慈平岳(手前左)と階上岳=種市岳(右奥)のシルエット!
二子集落の八重桜満開!
足元が悪かったり、勾配がきつく注意が必要!
うるさいぐらいの鳴き声だが、のんびりムードが漂ってますウミネコ君(笑)
宝石の極小粒を探す! 次は半崎の「野田層群」へ北行!
かつての粘土採掘場跡!
防潮堤内に石炭塊(亜炭)燃料の足しになるでしょうか(笑)
今日最後は「蟹ザンマイ!」漂う海藻と一緒に上陸後、そのままミイラ化されたご様子でし~た。残念!
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